日本の食品表示はなぜ隠す?「私」の裏面の仕掛けを見抜いて身を守る方法

いつから私たちの国のスーパーマーケットは、これほどまでに「自己責任」の戦場になってしまったのだろう。

毎週行く食品売り場。そこには色鮮やかな惣菜、完璧に平準化された野菜、そして一見すると簡素でクリーンな成分表示ラベルが並んでいる。しかし、その裏側に張り巡らされた「法的な抜け穴」「企業モラル」に気づいたとき、私はめまいのような不信感に襲われる。

海外、とりわけ欧州(EU)諸国が「予防原則」に則り、消費者の健康を守るために厳格な規制を敷いているのに対し、この国の食品行政はいったい誰の方向を向いているのだろうか。これは単なる一消費者の「こだわり」や「自然派」の繰り言ではない。私の身体、そして大切な家族の未来への主権をめぐる、きわめて切実な問いかけである。私が勤務している野菜工場に、ネパールの女の子たちが何人か働きに来ました。その女性たちは日本に来てから「生理痛が来るようになった」と口をそろえて言います。日本語学校の先生からは「日本の食べ物には気をつけなさい。」と言われた子もいます。

私がその子達に日本の食べ物について解説し、生鮮食品を使って自炊をするようになってから少しづつ落ち着いてきたような感じです。

1. 「遺伝子組み換え」表示の改悪というディストピア

2023年4月、日本の遺伝子組み換え(GM)食品の表示制度がひっそりと、しかし決定的に変わった。かつて私が売り場で毎日のように見慣れていた「遺伝子組み換えでない」という、あのささやかな安心を担保する文言は、いまや売り場から急速に姿を消している。

新しい制度において、「遺伝子組み換えでない」と表示するためには、GM混入率を「0%(不検出)」にしなければならなくなりました。

消費者庁「遺伝子組換え表示制度に関する情報」より 「遺伝子組換え農産物の混入がない(不検出)と確認された食品に限り、『遺伝子組換えでない』『大豆(遺伝子組換えでない)』等の表示をすることができます」

一見、厳格化されたように思える。しかし、私が現場の棚を見て突き付けられた現実の帰結は真逆だった。 広大なアメリカの農場や輸送プロセスにおいて、GM作物の微量な混入を完全にゼロにすることは技術的に極めて難しい。

その結果、メーカーは事前のリスク(虚偽表示による摘発)を恐れ、従来の「5%以下」であれば問題なく表示できていた「遺伝子組み換えでない」のラベルを次々と剥がしてしまいました。代わりに並んだのは、「遺伝子組み換え混入防止管理済」という、私たち一般消費者には一瞬で意味の分かりにくい曖昧な表現だ。事実上の「ラベルの隠蔽」であると私は捉えています。

一方、私が注目しているEUの基準を見てみよう。EUでは意図せぬ混入の上限を0.9%と設定しており、これを超えれば「GMである」旨の表示が厳格に義務付けられる。対して日本は、「5%未満」の混入を認めつつ、分別管理さえしていれば「遺伝子組み換え」である旨の表示を免除するカテゴリーが厳然として存在する(いわゆる主な原材料の上位3品目、かつ重量比5%未満のルールなど)。

消費者に「知らせない」こと。それがこの国の選択した「合理性」なのだろうか。私はこの不透明さに、強い危機感を抱かざるを得ない。

2. 膨張する添加物、矮小化される「簡素化」

日本の食品添加物の認可数は、諸外国に比べて異常に多いとしばしば指摘される。もちろん、国ごとに「添加物」の定義や分類が異なるため、単純な数字の比較には慎重であるべきだという専門家の意見(厚生労働省の見解など)は私も十分に重々承知している。

しかし、私が問題視している本質は数字の多寡ではない。「消費者がそれを添加物だと認識できない仕組み」そのものにある。

象徴的なのが、「一括名表示」の存在だ。 例えば、私たちが日常的に口にするパンや菓子に含まれる「乳化剤」「イーストフード」「調味料(アミノ酸等)」「酸味料」。これらは単一の物質ではなく、複数の化学物質がカクテルのように混ぜ合わされていても、法律上は「乳化剤」という一つの言葉で片付けられてしまう。

消費者庁「食品表示基準」より 複数の食品添加物が一体となって機能を発揮する場合、または食品中に普遍的に存在する成分と同等の機能を持つ場合、その機能を代表する名称(一括名)での表示が認められている。

私たちは、自分が一体「何種類」の化学物質を同時に胃に流し込んでいるのかすら、知る権利を奪われているのだ。

対して、欧州では「E番号(E-numbers)」と呼ばれる共通の識別コードが与えられ、どのような目的で、何の物質が使われているかが一目で追跡できるようシステム化されている。どちらがより「消費者の身体の安全」に誠実であるかは、はっきりとわかってしまいます。

3. なぜ日本は「緩い」のか:制度の背後にある官僚主義

なぜ、このような格差が生まれるのか。私はその原因を、食に対する思想――「予防原則(Precautionary Principle)」の有無に起因していると睨んでいる。

EUの食品安全基本法の第7条には、明確に「予防原則」が謳われている。科学的に100%の因果関係が証明されていなくとも、健康への重大なリスクが懸念される場合には、あらかじめ規制をかけることができるという思想だ。

ひるがえって、日本の食品安全基本法第11条などにおける「リスク評価」の姿勢は、常に「科学的知見に基づき」という文言が先行する。私にはこれが、「明確に毒性や被害が証明されない限りは、流通を止めて産業を停滞させるべきではない」という、多分に経済合理性と官僚主義に傾斜した力学が働いているように見えてならない。

外来遺伝子を入れないため「遺伝子組み換え」の規制対象外とされ、現状は届出のみで表示義務なしで流通可能な「ゲノム編集食品」に対する、現在の日本の前のめりな姿勢を見ても、私のこの違和感は確信に変わる。

おわりに:私が提唱したい「食の主権」の奪還

「知らぬが仏」という言葉がある。しかし、食の世界において、知らされないことは緩やかな加害に等しい。 私たちは、国の基準を盲信して「ただ並んでいるから安全なのだろう」と胃袋に収めるだけの、受動的な家畜ではないはずだ。

海外の規制が完璧だとは言わない。しかし少なくとも、向こうの思想の根底には「消費者に選択の権利(Right to know)を委ねる」という姿勢がある。日本のように、企業の利便性や「誤認防止」という建前のもとに表示を隠蔽し、選択肢そのものを不透明にするやり方は、消費者の健康に対する怠慢であり、不誠実であると私は断言する。

私たちの身体は、私たちが食べたものでできている。 この当たり前の事実を、もう一度、食品表示の貧弱なラベルの向こう側に突き付けなければならない。国が守ってくれないのなら、私は「知る」ことで、自らの生存を、自らの手で防衛していく。

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